本日、大東亜戦争終結から八十年を迎えました。
あの戦争の記憶をたしかに持つ国民はごく僅かとなりました。終戦当時、成人であった人が百歳を超える歳月が過ぎ、大東亜戦争はすでに歴史となったと言えます。ただし、惨禍を繰り返さないために、あの戦争がいかに始められたかを総括する必要がありますが、日本政府はこれを避けてきたとも言えます。
大東亜戦争の直接の原因は、昭和十六年八月のアメリカからの石油の全面禁輸です。当時、日本が全消費量の八十パーセントを頼っていたアメリカの石油を止められるということは、国としての「死」を意味しました。このとき石油備蓄がどれくらいあったか正確なところは不明ですが、仮に半年分あったとしても昭和十七年の二月には日本の経済活動はほとんど途絶えることとなったでしょう。当然アメリカ政府はこのことをわかっていました。
日本が「死」を回避するには、アメリカから突きつけられたハルノートの要求をのむか、油田を得るためオランダ領インドネシアに侵攻するかの二者択一でした。
仮にハルノートを受け入れれば、即死は免れたでしょうが、緩慢な死が訪れたことは疑い得ません。そうなっていたなら、当時の世界のほぼ全ての有色人種と同じく、日本は欧米列強の支配下に置かれたことでしょう。
二十世紀初頭の世界は、今の私たちが見ているような世界ではありませんでした。アジア、アフリカ、中南米の有色人種のほとんどが独立した国を持たず、欧米列強に支配され、ひたすら収奪される憂き目に遭っていました。
ヨーロッパの国々による植民地支配の歴史は古く十五世紀に遡ります。いわゆる「大航海時代」です。列強は十九世紀までに世界の有色人種が住む地域のほとんどを植民地にしていましたが、そんな彼らから見れば、極東に位置する日本は最後に残された“手つかずの地”だったのです。
十九世紀後半、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊(黒船)によって鎖国の扉をこじ開けられた日本は、必死に植民地化を防ぎました。
当時は「力による現状変更」が当たり前でした。強い者が弱い者から奪う、まさしく「弱肉強食」の世界です。明治政府は列強の侵略に備えて富国強兵政策をとり、産業振興に力を入れました。その結果、世界史上でも類を見ないスピードで近代化を成し遂げ、欧米に追いつき、独立を守り抜いたのです。
二十世紀初め、日本は南下作戦を取るロシアと戦いました。日本が初めて白人の国と戦った戦争です。もしこの時敗れていれば、日本がロシアの植民地となった可能性も否定できません。その後はソビエト連邦の一部となって共産化され、中央アジアの共和国や自治区と同じ運命を辿ったかもしれません。当時、白人が有色人種を支配するのは当然と考えられていたからです。
しかし日本はロシアに打ち勝ちました。このことは欧米を驚かせ、世界の有色人種に大いなる希望を抱かせたのです。
そののち、第一次世界大戦後の講和会議の場で、日本は国際連盟の規約に「肌の色の違いによる差別はなくそう」という文言を入れようと奔走しました。今日、世界共通の認識となっている人種差別禁止の概念を、世界で初めて主張したのが日本であったことは誇っていいと考えます。ただ残念なことに、これは米英両国に阻まれました。
日露戦争での勝利や第一次世界大戦の戦勝国となったことで、欧米諸国は日本への警戒を強めることとなりました。特にアメリカは満洲の権益で日本と対立するようになり、国内でも日系人排斥政策をとり始めます。この頃からアメリカは日本を仮想敵国と見做すようになっていたのです。
さらに満洲をめぐって日本と対立する中華民国を欧米列強が援助したこともあり、日本と列強の溝は深まっていきました。このあたりの歴史はとても複雑で、短い談話では語り得ません。前述のハルノートも日本が満洲から手を引くことを要求していました。
今日、満洲は日本が中華民国から奪ったと認識する向きがありますが、これは誤りです。もともと満州は女真族(満州族)の故地であり、中華民国が建国時に満洲を自国領だと宣言したに過ぎず、同国は一度も実効支配していません。それ以前も漢族が満洲を支配したことはなく、歴代の漢族王朝からは「化外の地」とされてきました。
話は数世紀も遡る歴史に及びましたが、大東亜戦争の要因を突き詰めようとするとき、欧米列強の植民地政策および有色人種への支配の歴史を無視することはできないのです。
大東亜戦争と第二次世界大戦はかなりの部分で重なっていて、しばしば同一視されますが、実は両者は別ものです。たまたま軍事同盟を結んでいたドイツが英仏ソ(後にアメリカ)に対して行なった戦争とほぼ同時期に、共通の敵と戦ったことで同じ戦争と見做されていますが、二つは違う戦争です。
大東亜戦争を語る際、日本はアジア諸国を侵略したとする論がありますが、これも正確ではありません。日本が戦った相手は、東南アジア諸国を植民地にしていたイギリス、フランス、オランダ、アメリカであり、当時、ベトナム、インドネシア、マレーシア、カンボジア、ミャンマーといった国々は存在しませんでした。
だからといって日本に責任がないとは言いません。これら地域における日本の占領統治は必ずしも寛大なものではなく、一部には資源の収奪もありました。
しかし結果的に、日本が欧米列強をアジアから追い出したことで、戦後、東南アジア諸国の独立が成った面もまた否定できません。
シンガポールのゴー・チョクトン元首相はこう言っています。
「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後十五年以内に、アジアの植民地は、すべて解放された」
インドのサルヴパッリー・ラーダクリシュナン元大統領の言葉はこうです。
「インドでは当時、イギリスの不沈艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた」
ミャンマー(当時はビルマ)のバー・モウ元国家元首は次のとおり述べています。
「歴史的に眺めて見ると、日本ほど、アジアを白人の支配下から解放するのに尽くした国は、他にどこにもない」
これらの言を理由に、日本の占領を良しとするわけではありませんが、世界史を俯瞰すれば、日本軍の戦いによってアジア諸国の独立が進んだことは確かであり、日本の果たした役割が小さくなかったと見るのが自然です。
また大東亜戦争終結後、多くの日本兵が戦地に残り、アジアの人々と共に欧米からの独立を賭け戦ったことも特筆しておきます。インドネシアでは約二千人の日本兵がインドネシア人とともに四年にわたってオランダと戦い独立を勝ち取りました。同国の英雄墓地に、この戦いで亡くなった多くの日本兵が眠っています。戦後、故国に戻れたはずの日本兵が「インドネシアの独立を叶える」という約束を守るため命を捧げたのです。
今日、国内外で、日本の戦争責任を追及する声があります。しかし、大東亜戦争の責任が日本のみにあるという考え方は正しくありません。「日本だけが悪かった」という一方的な見方で、何世紀にもわたる欧米列強のアジア支配の歴史や、明治維新後の日本への列強の圧力を考慮に入れず、大東亜戦争の本質を理解することはできません。
二十世紀はまさに戦争の世紀でした。二つの世界大戦以外にも多くの戦争がありましたが、日本は大東亜戦争において多くの国々で少なくない人命を奪い、同時に日本もまた祖国に殉じた二百三十万の兵士を含む三百万を超える尊い命を失ったのです。
東京大空襲、広島と長崎の原爆投下という世界史上でも稀な惨禍にも見舞われました。
にもかかわらず、戦後の日本人は「自国だけが悪かった」という意識を強く持ちました。戦争責任が日本のみにあり、欧米や中華民国にないかのように捉えるのは明らかに偏った考えです。贖罪意識は悪いことではありませんが、強い自虐思考は歴史と戦争への理解を歪め、思考停止を招く危険さえ孕みます。これが今日、アジアの一部の国々との関係をおかしくしている一因でもあります。
戦後の日本は、世界が驚倒するほどの復興と経済発展を遂げ、世界平和に貢献しました。戦時に占領した国々を含む途上国へ、多くの援助を行い、敵国だったアメリカとは強固な同盟と親善関係を築いています。
戦後八十年、戦争の「罪」は償ったと言えるでしょう。少なくとも、今を生きる日本人がその罪を背負う必要はありません。
歴史となった戦争を振り返るのは、本来歴史家の仕事です。私たちは歴史を政争の具とせず、未来の平和と繁栄をいかに構築するかを考える標としたいと思います。
令和七年八月十五日
日本保守党 代表
